手水舎東奥の石の板碑
境内には手水舎につながるように池がありましたが(現在は埋められています),その東付近に,背丈をしのぐ高さの分厚くて荒々しい石の板碑があります(下の写真左).はじめからこの場所に建立されたのでは無く,いつの時代にかこの場所に移されたものと思います.1740年(元文五年)に作成された絵図には現在の拝殿向かって右手前あたりにそれらしき形のものが描かれています. その碑文の中央には「妙法蓮華経・・・・」と深く刻まれています.
碑文の中央以外はかなり読み難いのですが,陽の当たり具合でかろうじて読むこともできます.それらの文字は拓本で読み取るのが常道でしょうが,何せ大きいのでそれも難しいことになります.そこでデジカメで色々な角度から写して,それを元に文字の解読を試みました.その結果を横書きで記します(上の図右が同文の縦書き).
//////////////////////////////////////////////////////////なお,梵字(バク)を示しておきます.
最初の行の末尾に見られる4文字「竪者法師」は「りっしゃほうし」と読むそうで,その下の名前はほぼ消失していますが,もしかすると「主純」かも知れません.法泉寺名称は「虚空蔵小瑠璃光院法泉寺」だそうです.
次に導師の名前ですが,筑西市黒子にある東睿山千妙寺27世の師道「亮寛」と記されています.この時代の千妙寺の僧正は亮海,亮寛,亮然と継がれたそうです(渡辺荘仁著「千妙寺」筑波書林1980年より).
中央の両側に書かれた念仏は,於我滅度後(おがめつどご)、応受持斯経(おうじゅじしきょう,ただし「斯経」は板碑からは読みとれません),是人於仏道(ぜにんのぶつどう),決定無有疑(けつじょうむうぎ),と読むそうです.
わが滅度(菩薩,高僧などの死)のあとにおいて,まさにこの経を忘れることないよう持ち続けなさい.そうすればこの者は仏道において必ず仏となることができる.このことに,疑いなどいっさいない.
中央先頭の梵字バクは釈迦如来の意味だそうで(梵字タラークからバクへと修正しました2019年6月27日),それに続いて,妙法蓮華経壹萬部供養塔の文字がくっきりと彫られています.「萬」の文字のかんむりですが,「くさかんむり」の様には見えず,口(くち)が二つ並んでいるように見えます.一万部とは何度も唱えると言うことのようです.
次の行の日付ですが,享保第六,辛丑より,この供養が行われたのが1721年,徳川吉宗の時代,という事がわかります.「龍舎」は「歳次」(これはよく使われる)と同義で、五行思想で星の宿る位置を表す「ほしはやどる」だそうです.初冬望日で「もちづき」15日になります.
最後の行には,慈願山 神照寺 賢澄 謹書と彫られています.「神照寺」部分は「神」と「寺」だけしか読み取れませんでしたが前後から判断しました.
享保6年(1721年)この年は閏7月頃上陸した台風による洪水が各地で発生したようです.閏7月頃の長崎県中島川の魚市橋の流出,閏7月14日から15日愛媛県松山市石手川氾濫,高知県田野町奈半利川氾濫,7月17日信濃川の一部の決壊(閏7月という記録は無いようだが恐らく閏7月),日光の大谷川,稲荷川洪水,この年仙台でも洪水が発生したという記録もあります.この坂井でも閏7月の台風で小貝川が氾濫し大きな被害を受けたように思われ,これはその供養塔なのでしょう.
石碑の裏面ですが,苔で覆われていて読み取れません.「堀込村 飯村■■次郎」程度しか読めません.石碑が前のめりに立っているので裏面は雨ざらしになっていたせいか前面より浸食が激しかったのかもしれません.
この石碑は千勝神社の歴史の中で大きな意味をもつものと思われます.