お大日の場所に関して,義重は千勝神社誌で中村寶水「境郷研究」の抜粋を記している.以下,その抜粋の一部

千勝神社(注:下妻の千勝神社)より東北方三,四町を隔て,お大日と称する畑地がある.もと大日堂があった地で近年まで藁宝殿(注:わらほうでん)があった.此畑地の東部に道路があった形跡が見ゆるから此大日堂の東面であった事が証拠立てられ,恵心尼文書中にある「東向きにお堂はたちて候」とあるに合している,この傍らに一大神社が祀られてあったが,これは今の境内に遷されてある.お大日に接続して芝地十坪ばかりありもと大木があったそうで今は斃獣埋葬地になっている.而して此等 区劃一帯を境町と称し,現在も此旧称(舊稱)を存している.按ずるに,恵心尼は境町の大日堂に在て,冒頭に掲げた如き夢想をせられたことであろうと推定ができる.
 親鸞の漂泊生涯もまた所在の堂宇に棲みて説法せし事,稲田の太子堂,高田の如来堂等其証とすべきもので,恵心尼の大日堂に暫し身を寄せられたことは自然の経路でありうると謂うべきものである.況やここを隔たる十八町,下妻の地には栗山の光明寺あり,光明寺附近に三月寺(下総小島)あり.何れも親鸞三年説法前後に出来た寺院である云々.

「境郷研究」の著者中村寶水氏について

中村寶水(1879-1954)本名,寿三郎.漢学者.生家は現茨城県筑西市関城で哲学館に学び古堂という号も使っている.また寶水氏は長塚節(1879―1915)とは親友の仲であったとの事である.
千勝義重が1879年現茨城県下妻市坂井生まれで1964年没であるので,寶水氏と義重との接点は何らかの形であったのではないかということが推測される.
以上,「寶水」に関する情報は2012年10月13日に関城在住の箱守重造氏より入手する.

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