千勝神社の由来

(本資料は昭和31年9月1日に出版されました千勝義重「千勝神社案内」から引用しております.また,現在の茎崎に至るまでの歴史につきましては,千勝神社の由緒・沿革にあります.なお,文中丸括弧(・・)で記した読みは原典でつけられているルビであり,[・・]で記した読みは,便宜上今回つけた読みを表しています.)

現に茨城県下妻市大字坂井・・・もとの真壁郡大宝村大字坂井・・・に鎮座する千勝神社は,明治維新まで世間一般に千勝大明神と呼ばれ,明治以降は千勝神社,通俗には単に千勝さまと云はれ,祭神も千勝大神と云いならはしているが,本躰は猿田彦命なのである.而もその創始は極めて古く,今より千四百年前に祭られたと伝えられて居る.
 千勝院内陣秘書の一として草創伝記の一巻が今も保存されて居るが,腐蝕して一寸読み難いけれど,大様左の如く判じられる(現代語訳).

武烈天皇壬午の歳,仲陽初三日,筑波山に雲斂(おさま)り,漁舟[ぎょせん]水に随ひて網せし時,忽然として波上がり,鶏鳴[けいめい]湖上にかまびすし,漁夫等之を窺うに,赭顔にして頭髪逆立ちたる御神,右手に鉾刄,左手に赤白絲を持ち,白鶏に乗りて来り,洲皐一島に登り立ちて宣はく[のたまわく],みなみな邪道に墜ちて国危し,宜しく祝言歌舞,天地人合躰して王道を興せよと,雲霞の中に其影を没せり.一人の耆漁あり,おのずから祝言祭式に通暁[つうぎょう]することを得,土民を導きて其一島を営補し,始めて三極の祭礼を行ひしが,耆漁たまたま杖を下して一井を穿つや,清水滾々[こんこん]として湧き出で,之を口にすればよく飢を医し万病悉く治平す,かるが故に,世挙つて幸井島と号し,湖辺を開きて水田となすに及び,人家を並ぶるに至れり,是を以て土俗春秋に祭奠[さいてん]し年穀[ねんこく]を祈る.

こゝに湖といふのは大昔の鳥羽湖(とばのうみ)のことで,常陸風土記に筑波郡四十里,在騰波江(トバノエ),長二千九百歩,広一千五百歩,東筑波郡,南毛野河,云々.また,万葉集の筑波山の歌に

 新治の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺(ね)の よけくを見れば 長きけに  おもいつみこし 憂はやみぬ

とあるその湖である.又,その頃の毛野河といふのは,源を下野国に発し,南下するに随ひ,東西の二流にわかれ,後に,その西流をきぬ川・・・・・衣(きぬ),絹(きぬ),鬼怒(きぬ)などの字をあてた・・・・東の一流をこかい川・・・・子飼(こかい),蚕飼(こかい),更に降つて小貝(こかい)と書かれた・・・・と呼ばれたが,その東流は筑波山の西麓に至つて一大潴水[ちょすい]をなし,江海の観を呈したものであらう.現在の地域からいふと,小貝川の両岸に沿ふた一帯の低地がその址(あと)で,西のほうは黒子村の南部から騰波江村,大宝村両村の東辺,高道祖村[たかさいむら]の北部から上野村,鳥羽村にかけて,小貝川の東方にあたる広汎な区域がそれである.
 さて,その神様は最初どの辺にまつられたかといふに,下総国に属した結城郡総上村東古沢の小名高地原と称する所で,糸繰川の小貝川に合流する地点,即ち小貝川の西岸,筑波郡の高道祖村に対して居る所である.
 今の鎮座地大字坂井は,元来常陸と下総との国境に在つた所から,境,堺とも書き,鎌倉時代以降は,概して境郷または幸井郷と記されてあり,草創伝記に幸井島と見えて居るのも,必ずしもこじつけではない.将門記や足利末葉の下妻古図にも明かに幸井郷と記されてある.
 所が,今から千百八十年ばかり前,称徳天皇の神護景雲年間,常陸の郡界を旧川に随つて・・・・旧川とは糸繰川のこと・・・・改修された時,川流が神社にあたる所から,神社を幸井郷の北部に遷されたといふのである.その地点現在は畑地となつて居り,お大日(だいにち)と呼ばれるが,そのお大日の辺から南方へかけての一帯の地域を小名境町と称している.つまり神社の門前に当たるので,門前町としての称呼が生れたものであらう.
 そのお大日に一基の板碑があつた.近年坂井部落内の墓地に付属する念仏堂に移されてあるが,碑面には大日如来の像を刻し,下方に正平十年云々の文字が見える所から察するに,この板碑は南朝に関係しての供養塔であらう.
 斯の如く神社は常陸国境の高地原から後にいふ境町に遷されたのであるが,それから数百年を経た鎌倉時代,約七百四十年前の建保の初年,親鸞聖人が上野国から常陸国へ移住され,下妻に接した小島といふ所(今は無いが三月寺というのがそれ)に於て,三年の間説法を試みられた際,裏方の恵信尼が,千勝の社頭[しゃとう]に佗居されたといふ事実もある.京都の本派本願寺の宝庫から発見された恵信尼文書に依つて公表された所の,親鸞聖人研究第四十五輯[しゅう]を見ると「さて下妻と申候ところに境の郷と申すところにそうらひしとき,夢を見てそうらひしやうは,堂供養おぼへて東向に御堂は立ちて候に,神楽とおぼへて,御堂の前には,立ち明かりの西に,御堂の前に鳥居のやうなる云々」と,いはゆる恵信尼の御夢想なるものが掲げられて居る.
 わが国に渡来した仏教が非常な勢でひろまるにつれ,神をまつる所,いはゆる神宮寺を建つるといふならはしとなり,鎌倉時代以降は一層盛んに,国々の大きい社では何れも神宮寺を設け,住職は別当と称して社務を司り,社僧をして神明に奉仕せしめられた.
 わが神社も,足利時代,・・・・・・・・・・思ふに,千勝大明神の称号は,この頃から用いられたものであらう.
以下略.



下妻の千勝神社年表大略(千勝神社誌より)

502年武烈天皇壬午の歳猿田彦命,白鶏に乗りて高地原(下妻市東古沢)に現る.
7XX年現在の下妻市坂井北部のお大日付近へ第一の遷座.
940年平将門の乱.この頃,当地は幸井郷もしくは境の郷と称された.
1217年親鸞上人の裏方恵信尼が千勝の社頭に陀居
1351年現茨城県筑西市黒子(旧真壁郡関城町)に千妙寺建立
1426年現下妻の千勝神社の地に第二の遷座.
1648年千妙寺から山号職事として慈眼山,院号職事として千勝院を与えられる.
1664年御本社勾欄の擬宝珠に寛文四年林鐘念八(6月28日)萱とあり.御本社修繕
1701年宗源宣旨により正一位千勝大明神を与えられる.
1721年妙法蓮華経壱萬部供養塔の建立
1740年千勝明神社付近の領地に関する絵図作成される.
1940年神楽殿建立
1964年下妻市坂井から稲敷郡茎崎町(つくば市泊崎)に遷宮
2002年鎮座千五百年記念挙行(下妻千勝神社にて)

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